21 お名前? 1


サトちゃんの特技は、目を閉じているようなのに周囲を完璧に把握できることです。「これ見てね」と学習用のカードをサトちゃんの目の前に出すと、アゴを持ち上げ、上から見下ろすような感じの角度で薄目を開けます。でもそれで見えたのかどうか、隣にいてもよくわからないのです。サトちゃんとは彼女が小学部5年のとき出会いました。

サトちゃんが中学3年生になったとき、私は中学部をまとめる仕事をするようになり、クラスにいる時間はとても限られるようになりました。


毎朝スクールバスが着くころ、私は生徒用玄関で子ども達を迎えます。サトちゃんも先生と一緒にバスから降りて歩いてきます。靴箱のところまでゆっくり歩き、そこで椅子に座って靴を履き替えるのが日課になっています。そして、自分の靴が入っている場所の前でしばし立ち止まるのです。

私は、靴箱の前でサトちゃんにおはようのあいさつをします。「サトちゃん、おはよう」と言葉をかけますが、サトちゃんはおはようと言葉で言うことはありません。サトちゃんのあいさつの言葉は「コンニチワー」と決まっています。でも、朝は言いたくない気持ちが強いみたいです。しかも誰かに言われて返すより、自分が言いたいときに言う方が気持ちいいようです。

あいさつの言葉は言いたくないサトちゃんですが、薄目を開け、ゆっくり視線を私の顔に合わせて、「ケンベコシェンシェイ(金箱先生)」と言います。私が「はい、サトちゃんおはよう」と応えると、サトちゃんはパッと笑顔になって、「ホン!」「ノンタン!」と叫ぶように大きな声で言います。私が「はい、本読もうね。ノンタン読もうね。給食食べたらね」と応えると、サトちゃんは「キャー」と嬉しそうに笑います。

何気ない朝の風景ですが、サトちゃんが教員に視線を止めてその名前を呼ぶという、新しいできごとの始まりでした。


サトちゃんは10名以上のクラスの友達の名前を全部覚えています。歌もすぐ覚えて歌います。そんなサトちゃんだから、教員の名前も呼べるようになるといいだろうと周りの大人は考えます。小学部の頃、自分の名前を何回もサトちゃんに教えようと試みた教員もいました。しかし、サトちゃんは教員の名前ばかりか、『先生』と呼びかけることすらしませんでした。


私の名前を呼ぶようになったのは中学3年になってしばらくした頃です。その後一緒に校内を歩いているときに廊下ですれ違った小学部時代の先生の言葉かけに応じて「△△シェンシェ(△△先生が行った…筆者意訳)」と言い、中学1年のとき歌ってくれた先生の歌声を聴いて「☐☐シェンシェ(☐☐先生の声だ…筆者意訳)」と言いました。係わっているそのとき口にすることはなくても、一緒に過ごした教員の名前はサトちゃんの心の中にちゃんとしまってあったのでしょう。思い出してみれば友達の名前を口にするときも、その人に呼びかけてはいませんでした。「テレビ」「ホン」「ボール」などと同じように、「◯◯クン」と口に出していたようです。サトちゃんにとってのお名前は、その人に向かって呼びかけるためではなかったようです。


長いつきあいの中で、彼女は私の名前も知っていたに違いないと思えます。サトちゃんが私の名前を呼んだのは、サトちゃんにとってどうしても一緒にして欲しいことがあったから…。そして初めて呼びかける対象として、心の中に隠れていた私の名前を見つけたのでしょう。





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