20 勉強


学校というところは勉強をするところです。どこか違いますか。学ぶ、学問する、言葉を変えても意味するところは同じです。

そして、学ぶということは変わることです。人が何かを学んで変わること、別の言葉で言えば成長するでしょうか。

養護学校も同じです。現在は『特別支援学校』と制度上呼び名が変わりましたが、一部『養護学校』という校名を残しているところもあります。


もう、30年ほども前、養護学校といってもイメージがわかない人がたくさんいた頃、私は転勤して高等部の3年生のクラスに配属されました。肢体不自由教育課程のクラスです。4人の生徒全員言葉を話すことはできませんでした。

そのクラスで、生徒たちと『言葉』を頼りに学習を進めていたというと、話が変だということになるでしょうか。そう、生徒たちは日本語を話したり読んだりすることはできませんでした。しかし、日本語を聞いて理解することはできたようです。そして、彼ら一人ひとりの意思を表現する『自分の言葉』を持っていたように思います。

彼らの言葉を日本語に、日本語を彼らの言葉に、通訳する方法(コミュニケーションと呼ぶのかもしれません)を手探りしながら、私たちの間にある言葉を確かめながら学習を進めたのです。

最初に球や立方体の手がかりを使っていくつかの概念形成の学習をしました。形、色、感触、音・・・私たちは何気なく理解して使っている、生活の中に溢れている様々な概念を整理して、生活を豊かにしていけるように。


これは同じだ。これは違う。自分で決断して伝える。すると、何かが起こる。 『自分の行動が他者に伝わって、外界を変えることができる。それを知ること』が学びになる筈。まだ手探りでしたが、そんな風に強い気持ちを持って毎日生徒たちと時間を過ごしていました。


当時は個人情報についての法的なしばりはなく、私たちは本人と保護者の了解さえ取れれば、授業の様子をビデオに撮って、振り返りをしたり、保護者に伝えて一緒に考えたりすることを自由に行うことが出来ました。

私は撮りためたビデオをダビングして振り返ったり、保護者に見てもらったりできるようにしたかったのですが、我が家にはビデオデッキがありませんでした。そこで夏休みに帰省する機会を利用して弟のデッキを借りることにしました。


弟がセットしてくれたデッキでビデオを再生しながらダビングしていきました。ずいぶん考えて教材を作ったり係わりを進めたりしているつもりなのに、映像に残っているのを見直すと反省することばかりです。

そのとき突然、
「この子たちも勉強するんだね」という声が後ろから聞こえました。

私は母がそこにいることをすっかり忘れていましたが、新聞を読みながら横目でビデオを見ているうちに授業の様子に引き込まれて見てしまったそうです。『日本語を話すことも出来ない重い障がい者と呼ばれる人たちの学校の先生という娘の仕事とは、ただ日常の生活のお世話をしているだけなのじゃないだろうか・・・』と思っていたそうですが、
「この子たちもちゃあんと勉強しているんだね」と、再び頷くのでした。
「当たり前でしょ」と言う私と目を合わせ、二人でまたビデオに向かいました。





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